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東京地方裁判所 昭和56年(刑わ)4号 判決

主文

被告人を懲役六月に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。

押収してある「毒物および劇物譲受書」一枚を没収する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五五年一二月五日午後四時ころ、東京都中央区日本橋本町四丁目一一番地所在の昭和化学株式会社事務所において、硫酸(五〇〇グラム入り三本)を購入するに際し、毒物及び劇物取締法一四条二項所定の譲受書の提出を求められるや、行使の目的をもって、ほしいままに、「毒物および劇物譲受書」の薬品名欄に「硫酸」、数量欄に「500×3」、販売又は授与の年月日欄に「55125」と各記入したほか各欄に所定事項を記入した上、譲受人欄の会社名個人名欄に、「東大応化外来研究員A」と冒書し、その右横に「A」の印影を冒捺し、もって、昭和五五年一二月五日付、A名義の「毒物および劇物譲受書」一枚を偽造し、即時同所において、同会社従業員吉本守に対し、これを真正に成立した文書のように装って提出して行使したものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

被告人の判示所為のうち有印私文書偽造の点は刑法一五九条一項に、同行使の点は同法一六一条一項、一五九条一項にそれぞれ該当するところ、右の有印私文書偽造と同行使との間には手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により一罪として犯情の重い偽造有印私文書行使罪の刑で処断することとし、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち一二〇日を右の刑に算入することとし、押収してある「毒物および劇物譲受書」一枚は、判示偽造有印私文書行使の犯罪行為を組成した物で、なんびとの所有をも許さないものであるから、同法一九条一項一号、二項本文を適用してこれを没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(弁護人の主張に対する判断)

一  「毒物および劇物譲受書」の私文書性について

弁護人は右譲受書が刑法上の私文書でないと主張する。

前掲各証拠によると、昭和化学株式会社は、毒物劇物営業者以外の者に硫酸を販売する場合、硫酸が毒物及び劇物取締法上の劇物であるところから、同法一四条二項に基づき、販売係において、あらかじめ用意してある「毒物および劇物譲受書」の用紙を譲受人に渡し、譲受人から所定事項を記載し、印を押した右譲受書の提出を受け、これに基づき納品書及び出荷伝票を作成して譲受人に渡し、譲受人に同社倉庫に行ってもらい、倉庫係において右出荷伝票と引き換えに硫酸を交付することとなっており、本件においても同社は右手続に従い被告人に硫酸を販売したものであること、右譲受書は、同法一四条一項、二項に従い、譲受人において毒物又は劇物欄に薬品名及び数量を、販売又は授与の年月日欄にその年月日を、譲受人欄に会社名個人名、職業、電話、住所及び用途を記載し、右会社名個人名の右横に印を押すこととなっており、被告人も本件譲受書に右の各事項を記載し印を押したものであること、同社では、同法一四条三項に従い、右譲受書を販売年月日別につづって事務所に五年間保管していることが認められる。同社がこのような手続をとっているのは同法一四条二項、三項の規制に従っているためであるが、同条項の立法趣旨は、毒物及び劇物が保健衛生上問題となる用い方をされたり、犯罪など不法目的に使用されるなどの虞が強いことに鑑み、譲受人を明らかにしておく必要があるためであると解される。

以上述べた本件譲受書の記載内容及びその果たす役割に照らすと、右書面は刑法一五九条一項に規定する有印私文書であると解されるから、弁護人の主張は採用しない。

二  公訴権濫用の主張について

弁護人は、本件公訴提起は適法性が明らかにされない捜査に基づき、恣意的に罰条を引用して差別的に起訴したものであるから、公訴権を濫用したものとして公訴は棄却されるべきであると主張する。

1  張り込みが違法であるとの主張について

弁護人は、証人三瓶卓が当公判廷において警察官が張り込みをしていたと聞いていると供述をしているのを捕らえ、犯罪が発生したと思われる合理的根拠がないのに張り込みをすることは違法であり、検察官においてその適法性について明らかにしない以上、適法性が明らかにされない捜査に基づく公訴提起であり、公訴権の濫用に当たると主張する。

この点につき検討するに、張り込みがなされていたかどうかは前記三瓶証言があるのみで必ずしも明らかではない。しかし、警察法二条一項の趣旨に照らすと、警察官は合理的必要性があれば犯罪の発生の予防及び鎮圧に備えて必要な範囲内で張り込みなどの監視警戒行為をなすことができると解されるところ、検察事務官作成の前科照会に対する回答書、判決書の謄本二通及び本件記録中の検察事務官作成の別事件「勾留関係」通知書によると、被告人は、昭和五一年六月一五日東京地方裁判所で兇器準備集合罪、公務執行妨害罪により懲役一〇月執行猶予二年に処せられた前科があること、昭和五四年一月二六日東京地方裁判所で火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反罪により懲役二年六月の有罪判決の宣告を受け、被告人において控訴の申し立てをなし、現在右事件は東京高等裁判所に係属中であること、昭和五四年四月六日右事件につき保釈となり、本件犯行当時も保釈中であったこと及び右有罪判決において被告人は、共産主義者同盟戦旗派傘下の西部地区共産主義青年同盟に所属する者であると認定されていることが認められ、これらの事情を考慮すると、張り込みをするにつき合理的必要性がなかったとは言えず、仮に本件において張り込みがなされていたとしても、違法であるとは言えないから、前記主張は採用しない。

2  恣意的に罰条を引用した差別的な起訴であるとの主張について

弁護人は、硫酸を購入する場合、「毒物および劇物譲受書」に真実を記載しなければならないという義務は毒物及び劇物取締法上はないのに、全く関連性のない一般法規たる私文書偽造罪で起訴したことは、刑罰法規に対する一般人の予測を裏切り、実質的に罪刑法定主義に反するものであり、更にもともと本件は、起訴する社会的必要性はないにもかかわらず、被告人が「戦旗派」に所属しているがために不当に起訴されたもので、これは憲法一四条に違反する差別的起訴であるから、公訴権の濫用に当たると主張する。

なるほど毒物及び劇物取締法には右譲受書に真実を記載しなかったことを処罰する規定はない。しかし、同法一四条二項は譲受人に氏名、職業及び住所を記入させるにとどまらず、印を押すことまで要求していること及び同条項の前記立法趣旨に照らすと、譲受人において右譲受書に真実を記載すべきことは当然の前提とされていると解される。そして、本件譲受書が私文書性を有するものであることは一で述べたとおりである以上、名義を偽って右譲受書を作成した被告人の行為が私文書偽造罪に問われるのは当然のことであって、なんら罪刑法定主義に反するものではない。

また、前に述べたように、被告人は兇器準備集合罪、公務執行妨害罪の前科を有すること、火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反罪により実刑の有罪判決を受け、現在控訴中であること、右有罪判決において共産主義者同盟戦旗派傘下の西部地区共産主義青年同盟に所属していると認定されていること、本件犯行が右事件の保釈中になされたものであること及び硫酸を手に入れるために譲受書を偽造し提出行使したものであるという本件事案の性質、態様等から見て、本件公訴提起が客観的な起訴基準を逸脱し、政治的に弾圧する目的で差別的になされたものであるとは認められないから、弁護人の主張は採用しない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 花尻尚 裁判官 小川正明 青柳勤)

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